先人たちが描いた夢「コシヒカリ誕生秘話」

− 越南17号 −
コシヒカリの誕生物語は、昭和19年、新潟県農業試験場で、農林22号と農林1号を交配したことに端を発します。その後、福井県で試験品種として開発されたものが「越南17号(農林100号)」です。これが、後にコシヒカリと名付けられます。この越南17号は、「味が良い」という特長があるものの、いもち病に弱く、倒伏しやすい欠点がありました。当時、世は「米の増産」が主流でしたので、越南17号が脚光を浴びることは全くありませんでした。
− 奇跡の出会い −
しかし、新潟県長岡農業試験場の職員、杉谷文之(当時40歳)は、この越南17号に着目しました。杉谷は、新潟の農業を救うべく「うまい米」を探していたのです。
− 苦難の連続 −
コシヒカリ誕生までの道のりは、決して平坦ではありませんでした。
越南17号は、膨れ上がった穂の重みに耐え切れず、刈り入れの直前に、多くの稲が倒れてしまったのです。杉谷たちは、過剰な生育を押さえるために、肥料の与え方に打開策を見出します。試行錯誤の末、ようやく、追肥のタイミングを微妙な熟色(稲が実ったときの穂の色)で見極めることに成功するのです。
− 偶然か、強運か −
福井県における、越南17号の待遇も決して良いものではありませんでした。当時、収量が良い品種は、作付けの場所でも、水はけのよい恵まれた場所で育てられ、越南17号は、水はけの悪い隅に追いやられていました。「米の増産」時代では、当たり前の話です。
そんな折、福井で地震が起こり、試験場の水路が分断されてしまいました。そのため、優先的に栽培されていた優良品種の水田は、水が干上がり全滅しましたが、低湿地のくぼ地で栽培されていた越南17号は難を逃れたというエピソードがあります。
− 魚沼の救世主 −
魚沼にも、越南17号に着目した一人の青年農家がいました。名は小林正利。小林は、「村を救うのはこの米しかない」と杉谷たちと志をひとつにし、米の開発に加わります。まさに、村の、魚沼の存亡を賭けたビッグプロジェクトでした。幸運なことに、このうえなく痩せていた魚沼の土地は、「越南17号」の生育には最適の土地でした。
− 越後の国に光輝く −
県の奨励品種に指定する場合、品種の登録番号(農林○○号)を農林水産省へ登録申請する必要がありました。当時の農水省職員は、「越南17号のような、収量の低い品種は登録すべきではない」の反対の声がありましたが、新潟県が説得を重ねた結果、昭和31年、越南17号を農林100号として登録すると同時に、全国にさきがけて、農林100号を奨励品種に指定するに至りました。杉谷や小林らの成果が認められ、越南17号(農林100号)の多くの欠点は、栽培技術で補えるとの判断によるものでした。
コシヒカリという名前は、新潟県で奨励品種に指定する際、「越後の国に光り輝く」という願いを込めて付けられました。コシヒカリがこの世に産声を上げた瞬間です。